「何に打ち込んだらいいのかわからない」、「自分は何者か」とゆらめき、“自分探し”に明け暮れたところ、年来、くすぶり続けてしまいました。「生きる目的とは何か」と懊悩しても、しょせんは、答えのない問いでした。「問い方」を間違ってしまった、とも言えましょう。青年期に一度は踏む轍です。

Y. Suzuki with AI
「目的」や「意味」は、人為的に意図して与えられるものです。もし、人間の生き方に「目的」や「意味」があるとしたら、人間に「目的」や「意味」を与えることのできる、超越した「何者か」が存在しなければならなくなります。宗教や占い、物語の領域です。
「論理」や「因果関係」は、前提条件や定義を与えられ、あらかじめ限定された領域でのみ成り立ちます。前提条件や定義にまで論理を適用しようとすれば、自己撞着に突き当たります。突き当たった先で論理は崩れ、「価値観」があるばかりです。価値は百花繚乱、人それぞれで、論理は無用です。
自らの責任で、ひとつの「価値」を信じて選び取り、没頭したところに、「さあ、これでよし」という、その人ならではの絶対性が帯びてこようというものでしょう。前提もなく、のっけから絶対的価値を論理で正当化しようものなら、全体主義的な信仰に直入してしまいます。
先哲たちの幾世紀にわたる煩悶をなぞるにつけ、「生きる意味」は、人それぞれが価値を選び取ることで自らに与えるのであって、全人類に初めから包含されているわけではないのだと、つくづく知らされます。
もっとも、“闇の底”で悲泣するばかりに陥った時、もっともらしい言説など受けとめられようはずもなく、いよいよ「絶対の物語」に救いを求めずにいられなくなりましょう。世界保健機関が健康の定義に新たに加えるべく提案したまま、保留状態となっている「霊性」が、そこで初めて、個々の場面で復権する、とも言えるでしょう。
また、昨今、健康増進のかけ声に駆られて、健康になること自体が目的となってはいないでしょうか。自身の心身を過剰に気遣い、結果として、微妙な不調をことさらにあげつらい、また、自然の摂理である老化を忌み嫌い、情報に踊らされて混乱し、不安を招きかねません。
心身は働かせてこそ、です。健康指向に行き詰ったら、「問い方」を変えて、健康に“生活する”には、と思い巡らせてみてはいかがでしょう。きっと、「当たり前」に行き着きます。
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